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読書のレビューがメインの日記。

沖黍州が送る、レビューメインのブログ。

読書会「Engage!」

実は、二度読書会を開催している。その理由を書いたノートと、結果を取り上げていこうと思う。

 

僕が本を読まなくなったのは、大学生に入ってからだと思う。教科書や専門書を読む機会は増えたけれども、小説を読む機会は一気に減った。この理由の一つは、本屋が近くに無くなったことだと思う。近く、というのは距離的なものではなくて、例えば通学路の中に電車が無い、そういった本にアクセスできる「近さ」が無くなったことを意味している。確かに大学図書館という魅力的な場所もあるのだが、国立の大学図書館は無味乾燥とした本が多く、没入しにくい。さらに言うと、殺伐と勉強をされる中で本を読むというのは、非常に息苦しいものがある。

 

 

そんなわけで、僕は大学に入ってから本を読む頻度が減った。

 

これは不幸なことだったと思う。

 

 

 

センター試験、二次試験、このとてつもなく批判されがちな入試制度の中で、僕はあらゆる面白い文献に出逢ってきた。ところが大学生になるや否や、よく分からない焦燥感に駆られて、無駄な時間に押しつぶされて「暇」を僕らは無くしてきたように思う。

 

「暇」がある、ということは幸せなことなのだ。

 

 

 

 

自分が今までやってきたことの意味――を問える境遇に至るまで、哲学者、作家などといった創作者でいられるのは仕合わせなことだ。頭に「お」をつけて<お幸せなやつ>と揶揄する人もいるだろうが、それも間違っていないと僕は思う。運よく現在も生き続けているあなた、いま生存している全人類に対しても同じことが言えるだろう、いままで生きてきた意味とはなにか、いま人間をやっている意味とはなにか――そう自らに問える(そんな暇がある)のは、人間として仕合わせなことであり、お幸せなやつだと揶揄されたりもする境遇だろう。

 

 

 

 

その幸せを、廃棄するのは勿体ない。そう考えて立ち上げたのが、このEngage! bookというグループになる。

https://www.facebook.com/groups/187045788172968/

 

 

 

さて、小説を忘れていた私に衝撃を与えたブロガーがいる。

http://d.hatena.ne.jp/daen0_0/

ほぼ同じ年齢なのだが、もう読書量が違いすぎる。世の中にはこんなに本を読んでいる人間がいるのか、と驚いた次第だ。

 

 

このブロガー開催のSF読書会に二度私は参加した。読書家ではない私は直感で感想を述べるしかなかったのだが、彼らの思考の広さ、小説の読み方には面白い、と思わされることがあった。

 

 

 

読書会という企画に面白さを感じたのはこの時だ。

 

 

同じ本を読んでいるのに、読み手の感性は違う。既にその段階で、1の本に対して複数の読者の感想があるわけだ。すると、本の数を増やしていけばどうなるだろう。それも、ジャンルを変えて、いろんな作家の本を読んでいけばどうなるだろう。

 

あっという間に無限の情報クラウドが完成するんじゃないだろうか。

 

 

これは読書家に独占させるには勿体無い、と私は感じた。別に読書家じゃなくても、1年に50冊程度本を読める人間ならば、学生と言う身分の中でいつでも参加できることだと思う。僕らは「お幸せ」なやつらだからだ。

 

 

さて、無限の情報クラウドなんてかっこつけた言い方をしたけれど、課題本の序文でもっとうまく表現されている。それを引用して、今回の区切りにしよう。

 

 

若者は、その空気がどんなものであれ、とにかく未来を目指して現環境を生き延びねばならないという宿命を負っている。必死である。それが、作品に出るのだ。が、おそらく書き手自信は、そうしたことはあまり意識していないと思う。かつて若き日のぼくは、そうだった。そのような、自分はいまという時代を活写しているのだ、などということを意識する〈暇〉も〈余裕〉もなかった。先にうだうだと書き連ねたとおり、そうしたことが見えるようになるのは、僕が〈もはや時代についていけない〉と揶揄される状態に近づいているからで、いやいや、ぼく自身の関心はいまや〈時代についていくこと〉などにはない、その策にある〈普遍〉にあるのだとうそぶくだけの自由を得つつあるから、である。

窮極の普遍とはなにかといえば、それは〈死〉であろう。死と普遍、その対極にあるものは何かといえば、それは、生と破格である。〈破格〉とはバリエーションのことだ。多種多様性、なんでもありの可能性、活きの良さのことだ。ここに収録された作品群にはそれが、ある。

 

 

 

 

 

 

筆者が語るほど、僕等は多種多様性、活きの良さを認めていないような気がする。だからこそ新しい読書の準備をしたいのだ。暇も余裕もない、普遍に行く前の特権的な時間の中で、〈お幸せなやつ〉らとして。

 

さぁ、ともにEngage! しよう。

 

 

 

引用はすべて、Engage! book第一回課題図書『神林長平トリビュート』収録、神林長平「序文――敬意と挑戦」より

野崎まど『know』の思考実験

know (ハヤカワ文庫JA)

 最初は伊藤計劃『ハーモニー』と見紛うほど同じ構成で、大丈夫かな、とページをめくっていったけれど、徐々に筆者のオリジナリティーが出てきて、最後にはもう一度読みたい作家に入った。

 テーマ自体は本当にシンプルで、「知る」って行為は究極的にはいったいどういうことなんでしょうね、という問い。
 情報社会が押し進み、ちょうどグーグルグラスなんかを身に着ける人が出始めた今だからこそ、読む価値があると思う。
 検索して《知る》ことと、自分が身体で「知る」こと。この二つの何が違うのか、いや違わないのか、それが本作が投げかける問いだ。

 ちなみに舞台は京都。修学旅行で訪れたり、京都で大学時代を過ごしたり、そんな人におススメしたい一書だ。

 Rule.1 レビュー作品の仮定を明らかにする

 作品では、《情報材》なるフェムト(10のマイナス15乗)テクノロジーの結晶が重要な役割を果たす。
 微細な情報素子をコンクリート・プラスチック、生体素材など様々な物質に転化、塗布し、通信インフラを作り出す。
 この情報材は一つ一つが単独で周囲をモニタリングするため、そのモニタリング内容を「電子脳」という補助脳システムを組み込んだ人間が受け取れる、という寸法。

 ナノテクなどで周囲状況をスキャニングする兵器などがSFでは描かれる気がするが、この作品はもっと先を描いている。
 「情報が完全にインフラと同化する世界。」
 これがオッカムの剃刀で切り取った際のこの本の仮定だろう。

 

以下、完全なネタバレ含みます。

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ブログ開始。

書く・遺す・遊ぶ

 

 書くということは遺すということだ。例外なく。

 

 内向的で平凡な僕は、大学生という貴重なモラトリアムの一部を、見事にハヤカワ書房に奪われた。たぶん、僕をひっかけたハヤカワの罠は『Self-Reference Engine』だったと思う。

 

 僕の好きな本は、冒険小説だった。

 あらゆる分野において。

 幼少期は動物の冒険小説、そして中学になるとこの年代の例に漏れずナショナリズムな福井春敏の『亡国のイージス』などを読んだ。高校は大学受験の参考書のせいでお金がなく、仕方なく太宰治などの新潮文庫を読んでいたわけで、早川書房というレーベルの前に僕が立つことはなかった。金額も高いイメージがあったし。

 

 大学生になると、小説の読書量が激減した。つまらない色あせた日々になった。

 そこに仕掛けられていたのが、『Self-Reference Engine』だった。

 

 わけのわからない面白さに圧倒され、その勢いで『Self-Reference Engine』と同時期に出版されたという『虐殺器官』を読む。

 これが僕の生来の冒険小説好きとマッチングして、ハヤカワに引きずり込まれるきっかけになる。

 

 そして、『ハーモニー』だ。

 htmlを扱えるくらいのHPスキルを持っている僕は、そのSF的トリックに圧倒されたと言っていい。書物にこのような可能性があるとは、と僕は純粋に驚いた。Itoh Projectとかいう計「画」が実在するのなら、それはハヤカワの陰謀なのではないかと僕は思う。

 

 そんなわけで、僕はSFと出逢った。

 

 僕が思うSFというのは、社会のモデル化だ。僕は一応文系の学生(国際関係論専攻)なので、社会現象を分析するにはある程度の仮定を設けた上で実験を行う。SFとは、自然科学を使った社会のモデル化であり、ある条件下の社会がどのようにふるまうかを描く書物だと思っている。

 

 で、あるならば。社会科学と同様、SFというのは書き手の思考を批評することが大事だろう。だから、僕はレビューが好きだ。僕が読んだ本を、どんなふうに他の人が解釈したのか、それを見るのが好きだ。とあるレビュアーの読書会に参加して、僕はもっと本を読もう、そしてレビューをいつの日か書けるようになろう、と決意した。

 

 そろそろ、僕もトラップを仕掛けていいんじゃないか。そんなふうに思い始めたので、ブログをとりあえず開設することにした。レビュアーとしてでも、書き手としてでも、なんでもいい。ハヤカワ・レーベルに仕掛けられた罠を、僕が変換して、誰か一人でも僕の罠に仕掛けることができたなら。それは、僕の「書く」が「遺る」になった瞬間だと思う。

 

 

 と、ここまで御託を並べたけれど、要はこのブログは僕の読書感想文置き場だ。楽しんでもらえるなら、嬉しいと思う。

 

Rules.

 基本的にこのブログでは、レビューの際に

 

 Rule.1 レビュー作品の仮定を明らかにする

 Rule.2 レビュー作品の仮定から導かれた結論を考える

 Rule.3 この思考実験の社会的意味を考える

 

 の三大ルールに従って書いていこうと思っている。なので、タイトルは社会の剃刀。オッカムの剃刀をもじっている。ただし、感動した作品はきっとこの限りにはならないと思う。剃刀で剃りきれない作品だってたくさんある。それはそれで、別途書いていくことにしようかな。

 

 

 以上。御託を並べすぎた。

 

 最後になるが、僕の名は、沖黍(ときび)州(しゅう)。よろしくお願いします。