野崎まど『know』の思考実験
最初は伊藤計劃『ハーモニー』と見紛うほど同じ構成で、大丈夫かな、とページをめくっていったけれど、徐々に筆者のオリジナリティーが出てきて、最後にはもう一度読みたい作家に入った。
テーマ自体は本当にシンプルで、「知る」って行為は究極的にはいったいどういうことなんでしょうね、という問い。
情報社会が押し進み、ちょうどグーグルグラスなんかを身に着ける人が出始めた今だからこそ、読む価値があると思う。
検索して《知る》ことと、自分が身体で「知る」こと。この二つの何が違うのか、いや違わないのか、それが本作が投げかける問いだ。
ちなみに舞台は京都。修学旅行で訪れたり、京都で大学時代を過ごしたり、そんな人におススメしたい一書だ。
Rule.1 レビュー作品の仮定を明らかにする
作品では、《情報材》なるフェムト(10のマイナス15乗)テクノロジーの結晶が重要な役割を果たす。
微細な情報素子をコンクリート・プラスチック、生体素材など様々な物質に転化、塗布し、通信インフラを作り出す。
この情報材は一つ一つが単独で周囲をモニタリングするため、そのモニタリング内容を「電子脳」という補助脳システムを組み込んだ人間が受け取れる、という寸法。
ナノテクなどで周囲状況をスキャニングする兵器などがSFでは描かれる気がするが、この作品はもっと先を描いている。
「情報が完全にインフラと同化する世界。」
これがオッカムの剃刀で切り取った際のこの本の仮定だろう。
以下、完全なネタバレ含みます。
Rule.2 レビュー作品の仮定から導かれた結論を考える(以下ネタバレ)
そんな世界では、こんな結論が得られました。
ありったけの情報をぶち込むと、情報はブラックホール化し、脳が死ぬ。
人間の脳に量子コンピュータをぶち込むと、「想像を超えた想像力」が得られるようになる。量子コンピュータをぶち込まれたのが、本作のヒロイン。戦闘ではもうハチャメチャぶりの最強っぷりを発揮してくれます。ガン=カタみたい。
計算尽く 。
僕は思い知る。クラス9という存在をどこまでも過小評価していたことを。弾道計算や軌道計算の遥か先。人間と世界を処理し切る所業。本物の未来予知と見紛うような究極の計算能力。
想像を超えた想像力 。――pp.257-258
ただそんなのは割と当たり前かな、と思ったのが僕だった。そりゃスパコン(それもとびっきりの!)と脳が一体化するのであれば、オペレーションズリサーチも一瞬で終わっちゃうだろうし、情報社会においては圧倒的な強みを発揮できそうだ。けれど、この行為は《知る》であって、本質的な「知る」ではないのだと思う。検索すれば必ずリターンが返ってくる。それは《知る》という行為ではどうやらなさそうだ。と、僕は思っていた。だってそうだろう? スマホを片手に暮らしている私と、アインシュタイン、どちらがより「知る」に近いんだろう。もちろん、アインシュタインだ。けれど本書はその前提をぶち壊してくれた。
筆者が目指した《知る》とはなんなのか。同様な思考実験を行ったG・イーガン『しあわせの理由』では、電子脳に類似する義神経をぶちこんだ結果、人間がどうなるのかを描いている。
ぼくには、あらゆる美術品が、あらゆる音楽が至高のものだった。どんな食べ物も美味だった。目にするだれもが完璧な理想の姿をしていた。
もしかすると、長年欠乏していた喜びを、ぼくがありったけの機会に吸収しているだけなのかもしれないが、それなら時間が経てば満腹して、ほかのだれもと同じように区別をつけ、お気に入りを見つけ、〝偏食″するようになるはずだ。
「まだこんな状況でいても、別に変じゃないのか? まるで選り好みしなくても?」ぼくはなんの気なしに、軽い好奇心でその質問を口にしはじめたのだが、いい終えるころにはパニック寸前になっていた。グレッグ・イーガン『しあわせの理由』(ハヤカワ文庫)――p.387
人間が世の中に対して完璧なる検索手段を手に入れたなら、僕はその前後に戸惑い、やがて知りたくもない情報の波に溺れてしまうような気がする。作中でも「情報の波」による戦闘は行われていたね。やたら胸糞悪いキャラが咬ませ犬になっていたのは、ライトノベル出身ならではの作風か。
ヒロインは生まれながらにして量子脳を備えた人間だった。だから『しあわせの理由』の主人公とは違い、自分がこの世に生を授かったその瞬間から、脳と量子スパコンが一体化している。その場合どうなるか。脳が検索手段と一体化し、脳が育っていく。
ヒロインの言葉が印象的だ。検索サジェスト機能と脳の機能は本質的には変わらない、としながら、以下のようにつぶやく。
「脳の想像力による補完は、人間が生きている限り日常的に行われています。道レルさんにはこんな経験がありませんか? 読んでいる物語の先がふと分かる。話している相手が何を言おうとしているのかがふと分かる。それが想像力の発露。蓄積された情報が絡み合い、一つ先を想起させる。もちろん間違いもある。ですが情報の累積が進むなら、予測の精度も上がっていく。想像力とは〝正解″により速く、より正しく到達するためのアルゴリズム」
(中略)
「私たちの脳は想像力に長ける。だからこの世界で〝正解″を求めるなら、脳に世界のありったけの情報を注ぐべきだ。可能な限り〝全知″を目指すべきだ」――pp.233-234
というわけで全知を目指すヒロインは、脳を文字通り「フル回転」させ、究極的な《知る》の状態、すなわち情報の重力崩壊が起きて情報がブラックホール化してしまいます。これで脳の機能がお陀仏になり、死んじゃいます。
Rule.3 この思考実験の社会的意味を考える
もちろん、ヒロインが全知を求めて死ぬために4日間も旅をするわけではないところが本作のミソでしょう。
脳の最高の開放状態を求めるならば、主人公は簡単な方法で死に臨めばそれでいいんじゃないか、と思います。けれどもヒロインは主人公にこう言い残していました。
『もし事象の地平線を超えて戻ってこられる宇宙船があったら』
そこで主人公の想像力が働きます。
彼女は死から戻ってくる情報の宇宙船を準備して、満を持して死んだのかもしれない、と。
本作の社会的意味ですが、今後進化していく検索能力と世代のミスマッチを示しているように私は感じました。
量子脳の場合は、0歳からつけなければ脳の処理が上手く追いつかない、とされています。
同様に、我々が今後直面するであろう超情報社会においては、スマホなどのデバイスに適応できる世代とできない世代が、生理的に誕生するのではないか、という問いかけが本書からなされているように感じます。
私は教養という言葉がまだ大事だと思っていて、古い本を読むことにも十分な意味があると考えていますが、五十年後、百年後の最新テクノロジーにおける教育というのは、本の情報を直接脳にぶち込むやり方なのかもしれません。それが
でも、それって本当なんでしょうか。読み書き算数など、検索機能だけではどうしようもない能力を人間は持っている気がするけどなぁ……僕は検索機能だけで生きていけるほど、人間って簡単じゃない、情報コードで人間はタグ付けできない、と主張したい。
そんな私への救いの言葉はここにあるかもしれません。
「ごめんなさい。私の立場からだの勝手な話だけれど、今とっても嬉しいの」
「なにが?」
「貴方がクラス9と深い関わりを持てたことが。クラス9とそうでない人間が繋がれたことが。二つの存在が、隔絶されたものではなかったことが」
「……クラス9だって人間ですよ」――p.310
野崎まど先生の次回作に期待して。